・成果を出した人が多くの報酬をもらい、成果を出さなかった人は報酬が少ないのは差別に当たるのか?
・成果の有無に関わらず、全員おなじ報酬をもらうことが「公平」または「平等」なのか?
・では、同一労働同一賃金という考えから、仕事の多さや責任も同じ重さにしなくてはならないのではないか?
・・心の片隅で、ずっと考えていたテーマでした。
労働ふくむ、色んな観点・事例つきで差別について語られてる人気書籍を読みました。
「差別はたいてい悪意のない人がする」という韓国の方が書いた書籍を日本語訳されたものです。
勉強になった部分をネタバレありで紹介します。
※この記事は「差別とは?」を中心に取り上げているので、障害・性別・国籍・肌の色など仕事関係以外の部分にも触れています
※この記事の執筆者は差別や権利について素人なので、間違いがあったらゴメンなさい
・前提として当事者じゃない限り、かなりの「学」ないと無自覚に差別するのが普通
・めずらしい→可視化→多いように感じるマジック
・誰かの平等が自分の不平等になる?相対的剝奪感とは?
・感謝を示さない人にも与えるべきか?
・自分と相手の不平等を失くすための議論をする
・気づけない特権を持っていると、無意識下で差別が起こる
・難民と外国の有力スポーツ選手への歓迎の違い
・差別の有無でパフォーマンスにも影響が出る可能性
・誰かを下げるユーモアジョークへの抵抗
・公正世界を信じている人は他者を差別しやすい
・たとえ、いま損をしても差別がない世界を目指す行為は将来への保険になり得る
前提として当事者じゃない限り、かなりの「学」ないと差別は想像できない
差別は常に差別によって不利益を被る側の話であって、差別のおかげでメリットを得る側の人が自ら立ち上がって差別を語ることはあまりない。
差別はたいてい悪意のない人がするより
大勢の人は意識的には差別に反対するが、「無意識」の下で差別をしてしまうという。
自分が生まれたときから当たり前に持っている「特権」に気づけない。
たとえば、(今でこそ それなりに配慮されるようにはなってきましたが‥)公共施設や娯楽施設は五体満足な人向けに作られています。
・足が悪い人向けにエレベーターが付いてない
・車いす用のスロープがない
・盲目の人用に点字ブロックが付いてない
・介助犬や盲導犬同伴での入店を拒否される
これらは五体満足な健常者がシステムを作っているからだと言います。
健常者がシステムを作る以上、障害を持っている人の困っていること(こういう風にしてほしい)を想像するのは難しい。
以前読んだ「多様性の科学」でも書かれていました。
ふだん、電車通勤していた人が自転車通勤に切り替えてからようやく、自転車に配慮していない交通整備だと気づいたと言います。
それまでは、自転車のことなど まったく気にしていなかったそうです。
つまり、こういう差別関係の書籍をたくさん読んだり、実際に障害を持った人の話を聞くなりして学んでいかないと、健常者は差別に気づけないということだね
しかし、この書籍の著者自身も、無意識下での差別的な考えが「いつ・どんな言葉や行動」として突然出てくるか分からないと言っていますね
人権や差別を学んで、本を出すような頭のいい人でも無意識下で差別をしてしまうなら、われわれ一般人はもっと差別的な発言や行動を「無意識に」行っている可能性が高い。
日々忙しい我々一般人にできることは「自分は無意識下で差別をしている」としっかり頭に叩きこみ、できる範囲で学んでいくしかない。
励ましや賞賛が差別ととらえられる?
「もうすっかり韓国人ですね」
差別はたいてい悪意のない人がするより
「希望を持ってください」
前者は国外から韓国に移り住んでいる移住者、後者は障害者に対する代表的な侮辱表現の例として挙げられている。私は戸惑った。
これらの表現は一見、褒め言葉や励ましの言葉のように見えるからだ。
当事者からしたら なんとなく不快なのはわかるけど、これは差別との判断が難しいね
自分も職場に外国から来た人がいたら、前者に似たようなことを言ってしまいそう‥
・話し手には本当に賞賛や励ましの意図があったのだろう
・これらの言葉を発した当人に、このような表現が聞き手にとっては侮辱的に響くかもしれないと教えたらどう反応するだろうか?
・話し手が「そんなつもりはなかった」と反論するのであれば、それで済まされるべきことなのだろうか?
・侮辱した者はいないのに侮辱されたものだけが存在するのだとすれば、侮辱と受け取ったものが我慢するか、考え方を変えなければならないのだろうか?
・これは単に特定の言葉を口にしないことだけで解決できる問題ではない
・このような言葉がなぜ侮辱になるのかを理解しない限り表現だけが多少違っても、結果的に普段の言葉としてあまり変わらない言葉を口にするか、非言語的な視点や行動による差別として現れるだけ
・侮辱かどうかの判断は「この言葉がどのように聞こえるのか?」を当事者に直接聞いてみればいいだけ
自身の正直な感想をいうと、そこまでして他者とコミュニケーションを取りたくないと思うレベル(^^;)
たとえば、相手が言葉を選びつつ「その言葉に傷ついたから やめてくれ」と注意してくれる人ならいいですが、我慢して不満を溜めるようなタイプが相手ならコミュ障の私は無理ですね。
察することを強制されるのが大の苦手なので。
つまり、私にとって、他者との「察しの」コミュニケーションは自分が苦しでもよくない欲望に入る↓
60代くらいの身内に「男らしくしろ!」「女らしくしろ!」「男のくせに泣くな!」「女のくせに出しゃばるな!」などと発言する人がいます。
これらは現在、セクハラ・パワハラ発言に当たるのですが、この類の発言をする人も無意識下に差別を行っている可能性が高い。
何より恐ろしいのは上記のような発言をしておいて、「差別はダメだ!」と同じ口から出てくること、矛盾に気づかない
コミュニケーションの正解は「沈黙」だと前に読んだ記事で言われていましたが、必要最低限のことだけ伝えて余計なことは言わないのが正しいのかな‥?
沈黙が正解?↓
https://togetter.com/li/2237473
認識されないマイノリティ~無意識の排除はなぜ起こる?
書籍内では、一般的には女性は男性より弱い立場にあり女性は差別されているとされています。
しかし、「男性の方が差別されている」と主張した男性の事例も紹介されています。
例:男性は女性に食事などを奢る(おごる)のが当然だという社会の圧力など
お互いがお互い、差別される側だと主張している。
最近だと、日本でも弱者男性というワードが頻繁に使われていますし、著者の国(韓国)と似た感じになっていますね。
マジョリティ差別論の主張を覗いてみると、それらは「マイノリティはもはや差別されていない」という前提から始まっている。
差別はたいてい悪意のない人がするより
たとえ過去に差別された事実があったとしても、現在は解決済みのはずだという思い込みに拠っているのだ。
前述している奢る・奢らない論争を例にみると、男女の賃金比較で説明ができそうですね。
下記の記事によると、男性が10万円もらえる場合なら女性は7.79万円しかもらえないという中央値が出ている↓
https://www.tokyo-np.co.jp/article/258892
男女間で賃金の差別があるから、男性が奢るべき圧(差別)が起きる感じか‥
こうしてみると、差別って回りまわってるんだなぁと思いました。
女性は男性と比べて賃金で差別されている→だから女性は男性から奢ってもらえる特権が与えられる→その特権によって男性が苦しむ→男性は女性との賃金の格差に気づいていない
個人的には、持ちつ持たれつ‥のような関係より、「賃金」と「仕事内容(責任ふくむ)」を平等にして誰も特権がない世界の方がいいかなぁと思いました。
だから、世界で男女の賃金格差をなくそうとする動きが強いわけですね
書籍には書かれていませんでしたが、賃金を平等にするなら当然、仕事内容(責任ふくむ)も平等にしなくてはなりません。
今までは賃金が低い代わりに そこまで仕事内容に責任がないという人もいたと思いますが、強制的に賃金と責任の重さを上げた場合にも反発が起こるのかが気になりますね。
アルバイト程度で ゆるく働きたい人や役職がついてでも沢山稼ぎたい人など色々いると思うので、人によるでしょうけど。
他には、力仕事などは今まで女性は免除される傾向にありましたが、平等にするなら女性も力仕事をしなくてはなりません。
力仕事に限っていうなら、大体の女性は男性より成果を出せないので「どうするのか?」も気になりますね。
機械等を導入して、力仕事をみんなが「平等に」ラクができる環境でも作れれば良いですが。
著者としては正規職と非正規職を差別するのは反対だそうですが、個人的には仕事内容によりますね。
同一労働してるなら賃金を平等にするのは賛成ですが、非同一労働なら非同一賃金に賛成。
少数の目立つ人たちがいるから差別されていないように見える?
女性が大統領や高級公務員のようなリーダー的地位に立ったり、かつては男性が大多数をしめていた職業についていたりすると、それはすぐに可視化される。
差別はたいてい悪意のない人がするより
このような女性たちは すぐに目立つので、その数が多いように感じられる。
ふむ、データではなくイメージ(?)で判断しているわけだね
少し古いデータですが‥2017年の韓国では、5級以上の国家公務員の女性が占める割合は20%未満、高級公務員では5.2%ほどだそうです
日本でも国会中継をよく見てみると、男性かつ中年~高齢者の割合が多いように感じます。
女性もいますが少ない。少ないから目立って沢山いるように感じられるわけですね。
2024年現在のことなのが悲しいですね(^^;)
よく知らない分野や難しいデータを見るのが億劫なときは、自分たちの「イメージで」判断してしまうというのはダニエル・カーネマン氏のファスト&スローでも言っていましたね↓
他にも言われているのが、誰かが得をしたら自分が損をするような感覚になることが関連しているそうです。
女性が「平均的に」不利だという事実は、抽象的でなかなか響かない。
差別はたいてい悪意のない人がするより
一方で、目の前の女性が自分より良い条件や恵まれた立場にあるという事実は、具体的な感覚で経験できるものだ。
(中略)
相対的剝奪感を覚える人もいるだろう。
※他者もしくは他集団と比べて権利や資格など当然自分にあるべきものを奪われたように感じること。実際に失ったものがなくても、他者がより多くのものを持っている時、相対的に自分が何かを失ったように感じる
少数の恵まれた女性が存在するだけで、差別がないように見えるという奇妙な現象。
さらにトークニズムというマジックがある。
トークニズムとは、歴史的に排除された集団の構成員の中、少数だけを受け入れる名ばかりの差別是正措置を指す。
差別に対する怒りを和らげる効果があるそうです。
それによって全ての人に機会が開かれているように見え、努力し能力を備えてさえいれば誰もが成功できるという希望を与えるからと言われています。
結局、現実の状況は理想的な平等とは雲泥の差があるにも関わらず、平等な社会がすでに達成されているかのような錯覚を引き起こす。
やはり、イメージだけではなく実際の統計データをみることは大事だね‥それよかトークニズムの効果を意図的に狙ったやつ、最悪だね
たとえば、政治家になりたい優秀な女性がいたとしても、「差別によって」不利になっている可能性が高いですからね
見えない差別への対策としては、実際の現状と統計データを目立つところ(インフルエンサーやメディアなど)で発信する必要がありますが、統計データは難しいので専門家でもない忙しい一般国民が簡単に理解するのは難しそうですよね(^^;)
上記の引用のように、少数の豊かな女性がいる→目立つ→豊かな女性が多いのでは?→女性差別はない・・などのイメージは直感的に理解できても。
感謝されなくても厚意で寄付すべき?寄付を受けるのは当然の権利なのか?
書籍で紹介されていた例です。
・ある男性が毎年、障害者施設にお金や物品を贈って支援していた
・最初は寄付に対して大げさにお礼を言われた
・月日が経つほど、向こうからお礼を言われなくなってきた
・数年後、施設の障害者たちは もはや寄付をありがたく思っていないようだった
・その後、彼は支援をやめた
・するとある日、施設から連絡が来る
・「どうして支援を続けてくれないのか?」と
・その言葉に支援者である彼は気を悪くする
・善意で与えていたのに、彼らはそれを当然の権利だと思っているようだ
支援者の彼が言いたいのは、つまり‥
「あなたに優しくするのは私の善意にすぎず、あなたの権利ではない」
どちらの立場としても経験があるから分かるなぁ‥(^^;)
冷めたものの見方かもしれないけど、言葉や手紙(またはメール)でお礼を言うくらいで支援してもらえるなら積極的にやればいいのにね‥
人間は慣れやすい生き物なので、常に意識していないと難しいですけどね。
人間関係においても他者に舐められたら良いよう利用される事例も沢山みてきましたし。
余談ですが‥だから、いつもストレートに感情を伝えてくる「動物関係」に支援(ボランティアなど)する人が多いのかなぁとも思ったり。
あとは「失う痛み」は「得る喜び」の2倍の衝撃という実験データもあるので、支援者も施設側も色々と人間関係をミスっていますね
たとえば、無償で良い情報提供をしているブログ記事や動画、面白かった作品には「積極的に良コメントせよ!評価をせよ!」と口を酸っぱくして色んな方々が言っていますが、ホンマにコレですよね。
「面白かったよ!参考になったよ!」と言うだけで、クリエイターさんのモチベーションが上がるのだから。
下記の書籍でも褒められたらクリエイターのストレスが激減するという話がされています↓
持てる者とか、持たざる者とか考えるより、お互いがお互いに出来る範囲で与えられる関係がいいですね(^^)
すべての人が平等なら、片方が一方的に負担を負う必要がないという事実
男女の経済的格差は長いあいだ存在してきたし、経済的負担も不均衡に分配されてきた。
差別はたいてい悪意のない人がするより
そもそも男女の経済力が平等であったならば、女性が男性に経済的に依存したり、男性が過重な経済的負担をかかえることもなかっただろう。
特権というのは、差別を「経験して」初めて認識できるという観点から‥
奢る奢らない論争で、いま男性が理不尽さを感じているのはずっと存在していたにも関わらず、認識できていなかった特権を自覚するシグナルだとも考えられる‥と著者は言っています。
真の平等が実現したら女性側の特権も一部なくなるけど、こういう部分がゼロサムゲーム(限られたパイを奪い合う)にみえるのだろうか?
会社での仕事に限っていうと(今は崩壊しつつありますが‥)終身雇用と年功序列があるから、女性側はどうしても出産や育児、時短勤務で一時的に会社を抜ける必要があるので男女格差をなくす平等を実現するのが難しい気がしますね。
育児は男性が担うこともできますが、出産は女性しかできないですし。
※独身者の場合は男女ともに、年収は変わらないと仮定した場合
出産や育児、時短勤務で男性側(パパ)も女性側(ママ)も等しく、一時的な期間は会社を休職しなければならない強制的な法律でもあれば別ですが‥。
パパママお互いの年収も等しくダウンするだろうし、年収そのままだと会社にずっと貢献してきた独身社員からの不満が出るだろうし、難しい問題です。
たとえば、昔の社会主義国のように どれだけ働いて貢献しても、みんな同じ報酬だと働く人の気力がなくなる→組織の弱体化があるだろうしね
平等を実現するために組織の弱体化を許すか、他になにか良い方法があるのか‥。
「私は苦しいけれど、あなたは楽だよね」という争いになっては解決策を導き出すことは難しい。
差別はたいてい悪意のない人がするより
そのかわりに、「あなたと私を苦しめる、この不平等について話し合おう」という共通のテーマについて語るべきなのである。
平等を実現するために「自分が今まで持っていた特権を捨てれるか?」も問われそうですね。
こういうのは普段しっかり勉強していないと、時代の流れについていけなくなるんだなぁと感じています。
忙しい現代人が書籍など何らかのコンテンツで勉強して、熟考できるような時間があるのかも疑問ですし、ヒマがあるなら日ごろの疲れを取る時間に充てたい人もいるだろうし、とても難しい問題ですね。
差別はダメだと言いながら、難民の受け入れに反対する人々の矛盾
2018年に起きた韓国でのイエメン難民を受け入れるか?否か?の議論です。
※イエメン難民は内戦を逃れるために韓国に来ました
・前提として差別は良くないという認識を全員が持ち合わせている
・2018年の時点では、女性は男性より弱者の立場である
・難民は他国に行くと弱者の立場になる
・イエメン難民の受け入れに反対した韓国人男女の割合→男性46.6%、女性60.1%
・一般的には、弱者は自分が被った不利益から他の弱者に対する共感能力が高いと言われている
・なので、本来は女性の方が難民受け入れに賛成するはずなのに、この結果である
これは何となく理解できるな‥性犯罪の可能性とイスラムという宗教の問題だね
イエメン難民の多くは「男性」であったそうです。
そして、イスラム教は男尊女卑で暴力的な宗教だという目で韓国人女性から見られていた。
だから、何も起きていなくてもイエメン難民が近くにいるだけでも怖くなる。
そこに弱者同士の連帯感はなく、女性は難民より自分たちの方が弱者だと主張したそうです。
まるで現在の日本のフェミニズムを見ているようですね
はたして、「イエメン難民は本当に韓国人女性より弱者の立場なのだろうか?」と。
イエメン難民は‥
韓国社会で「大きな努力なしに信頼を得て、ありのままの自分を表現しても安全だと感じ、問題が起きても解決できると自信を持つ」のだろうか?
差別はたいてい悪意のない人がするより
(中略)
「国民が優先だ」。難民受け入れに反対する集会にかかがられた、このスローガンを見れば一目瞭然だ。
イエメン難民は、よほどの財力かコミュ力でもない限りは韓国という外国の地で苦労したり孤立することが予想されますね。
後の方でも言及されていますが、たとえイエメン難民を受け入れたとしても限度を超えた苦労と孤立で「無敵のひと化」して、韓国の方々が心配していたように本当にイエメン難民の多くが犯罪者になってしまう可能性が高いという悲しいできごとにもなりかねない。
一方で、歓迎される外国人たちもいる現実
韓国に外国人が入ってくることに対して「国民が優先だ」と叫んでいた人たちが同時にオリンピック競技のために見知らぬ外国人を国民として迎えいれている。
差別はたいてい悪意のない人がするより
確かなことは、その中にある特定の境界に沿って私たちは内の人には親切で献身する人になり、外の人には薄情で時には冷酷な人にもなれる傾向があるという点だ。
まぁ、国内で戦力になってくれるような外国人と、そうでない外国人を差別(無意識ふくむ)して考えている人が同一人物とも限らないけどね
でも、こういう矛盾を平気で口にする人を身近で見てきた私としては、無意識ふくむ差別者が多いんだろうなぁとは思いますね
(もちろん、人のことも言えませんが‥)
人間の心理としても、慣れ親しんだもの・すでに知っていることは簡単に受け入れられるけど、得体のしれないもの・説明ができない何かを簡単には受け入れられないというがありますからね(^^;)
せめて差別している自分に気づいて差別をしていると「自覚」した上で、どう行動するかを決めて欲しいものですね。
知識と自覚を得て、どう行動するかは個人の自由だとは思っていますが‥。
差別は単次元的な見方ではなく、多次元的な見方をする必要があると著者は言います。
たとえば、今まで例に出てきた国内の男女・難民(外国人)をみると‥
・国内の男性>国内の女性
・国内の人々>難民男性
・国内の女性>難民男性
・・という図式になる。国内の女性に注目すると、ある分野では特権を持っているが、ある分野では差別を受けていることになる。
そして、自分が差別を受ける立場にならないと持っている「特権」に気づけないという。
つまり、国内の女性や国内の男性が外国へ移住したりして、初めて差別に気づくことになったりかな‥
余談ですが‥犯罪を心配して難民の受け入れに反対しているなら、難民が女性だけだったらどうしていたのか気になりますね。
現代の女性は ほぼ全国共通で「同情される力」みたいなのが強いので、受け入れられる確率が高かったんじゃないかと個人的には予想しています。
中年男性より若い女性の方が、そして黒い色の成犬より子犬の方が可哀そうにみえる→助けたくなる‥という記事↓
努力が足りないからではなく、差別を受けるから能力が落ちることもある?
被差別集団に属する個人は差別を受けていることを認識しながらも自らが足りず、劣等生だと思うため、差別に抵抗することもない。
差別は悪意のない人がするより
実際に自分に向けられた否定的な視線を意識するだけで、物事の遂行能力が落ちることもある。
(中略)
これは酷い悪循環である。
否定的な固定観念を刺激すると否定的な固定観念を打ち破らなければならないというプレッシャーがかかり、そのプレッシャーのせいで遂行能力が低下し、結局は固定観念どおりに否定的な結果になる。
いま流行りの「努力が足りない」と「環境・運が良かった」論争の話に似ているね
学校で えこひいきする先生がいたとして、ひいきされる学生は凡人でも優秀になれる確率が高くなり、ひいきされない学生は優秀でも凡人以下になるという可能性が高くなる‥ということですね。
そう考えると、会社で上司への機嫌取りに精を出すひとの気持ちがわかる気がしますね
ビジネス用語でいう「心理的安全」の確保にも似ています。
※心理的安全~失敗しても罰を受けたり、不利な状況に追い込まれたりしない
心理的安全がある場所にいると、自分や職場に対する不信感や不安が少ないので、知的能力が妨げられない。他者から尊重されていると感じ、失敗して降格させられたり拒否されることを恐れる必要もない。
よく言われている周りから仕事できない烙印(らくいん)を押されると、本人が優秀でも本当にその通りになってしまう確率が高まるわけですね。
一度そのような烙印を押されたら這い上がるのはコスパが悪いので転職した方が早いと言っている方がいましたが、私もその通りだと思いました。
ほかには名門大学と、そうじゃない大学の例も出されていました。
名門大学の優秀な学生には多くのチャンスが与えられ、そうじゃない大学の学生には限られたチャンスしか与えられない。
結果として、チャンスを沢山もらえた学生は成功する確率が高まり、そうじゃない学生は成功する確率は低いままというのがある。
本人の優秀さではなく、チャンスが与えられた回数≒差別を受けなかった回数によるもの。
つまり、差別を受けた回数が多い学生は「相対的に」成功する確率が低下する。
たとえば、学生の就職チャンスを平等にする例を考えてみると‥
能力だけをみて平等に学生を採用する場合、
・高卒以上や大卒限定の枠を取っ払う
・業務に必要な資格だけを判断基準にする
・面接希望者の容姿をみることを禁止※(業務内容に容姿が関係ない場合)
・テスト業務の結果のみを見て判断する
・・このような必要がありますね。
※容姿が良いと、仕事ができそうなイメージを(無意識に)面接官に持たれて判断の妨げになることがあるため
採用側のデメリットととしては、応募者が多くなるような人気職種の場合は採用試験や面接が大変になることくらいですかね。
余談ですが‥こういう人材採用関係は、より機械的なAIで担うことができないのかなぁ‥なんて考えながら読んでました(^^;)
就職に関しては採用者(人間)の「ひいき・好み」がどうしても入ってしまうので仕方ないけど、他の分野なら なにくそ精神で不利な状況からでも這い上がった例もあると思うけど?
あくまで私の感想ですが‥
自分でコントロールできる状況にあるか(または行くか)どうかで決まるんじゃないかと思っています。
例
A:子供時代に兄弟間で親から差別される→コントロールできない
B:大人になってからも差別がつづく→ある程度はコントロールできる(働いて自活できるため)
A:子供時代に貧乏家庭に生まれる→コントロールできない
B:大人になっても実家は貧乏→ある程度はコントロールできる(勉強して起業したり)
親から受けた虐待とか差別のトラウマ・後遺症など社会で生きていく上でのハンデも、もちろんあると思います。
不利な状況から這い上がるのは人との出会いとか天職が見つかるとか運要素も強いですが、ある程度コントロールできる状況(したい意志がある)なら可能だと思っています。
差別のない状況・人のもとへ「自分の足で」行く必要がある。
権力や発信力をつけて制度や法律を変えるもいいですね(^^)
黒人の子供たちに白人人形と黒人人形のイメージを答えさせる生々しい実験~偏見への自覚
こんな実験が書籍で紹介されていました。
・被験者は3歳~7歳までの黒人児童
・白人人形2つと有色人種(茶色い肌)人形の2つを配置
・実験者が子供たちに いくつか質問をする
・「遊びたい人形を教えて」
・「いい人形を教えて」
・「悪く見える人形を教えて」
・「キレイな色の人形を教えて」
・などの質問をした
・黒人児童は白人人形を好ましいと答えた割合が多かった
・白人人形で遊びたい67%
・白人人形はいい人形59%
・白人人形がキレイ60%
・悪く見える人形は有色人種の人形が59%
・白人人形が悪く見えると答えたのは17%、残り24%は無回答か分からないと答えた
・つぎに実験者はこう質問する
・「自分と似ている人形を教えて」
・この質問で児童の何人かは泣き出してしまった
キツイな‥子供にやらせるには残酷な実験だな
大人だって、自分を否定したり責めるのはキツイですよね
自責思考で成長する論もありますが‥これは自分ではどうにもならない事例なので他責思考(社会の問題)でいい。自らが動いて差別をなくす活動ができる人はもっとすごいですが。
自責思考と他責思考を「使い分けれる」大人になりたいものですね、自戒をこめて‥(^^;)
ちなみに、この実験から過去にあった白人と黒人の学校を分離する政策を廃止したそうです。
それまで多くの人々は施設やカリキュラム、教師の質さえ同等であれば平等と考えていた。
しかし、人種間を分離することで内在的に差別を根付かせ黒人が劣等感を抱え、低い教育成果を出さざるを得なかったという証明になってしまったため。
ユーモアと差別の関係~笑っていないのは誰か?
いつどのような場面で披露されるかによって面白いか、面白くないかが決まる。
差別はたいてい悪意のない人がするより
(中略)
なぜ面白いのか?という質問は、笑っているのは誰か?という質問に置き換えられる。
黒人の扮装を見て笑う人は、自分をどんな集団と同一視する人なのか、笑わない人たちはどんな位置にいる人たちなのか。
例として、全国障害者委員会の発足式および任命状授与式での「共に民主党代表・イヘチャン氏」の祝辞が例に出されていました。
「政界で発信するのを見ると、ほんとうにあれが正常な人間なのかと疑うほどの精神障害者が多い」と述べた→精神障害者を侮蔑する発言だと批判が相次いだ。
・政治家は自らを卑下することに慣れきっている
・むしろ、ユーモアを交えた言葉を通じて、会場のウケを取ろうとしたと考える方が筋が通る
・その言葉が障害者に対する差別を前提にしていることに気づかなかったのかもしれない
・もしそうだとすれば、ここには より本質的な問題がある
・ユーモアの中に潜む差別に気づかないほど、政治家の間では障害者は無関係で重要でない人と思われているということを裏付ける
・冗談は冗談に過ぎないと軽く考えていること自体が社会的に弱い集団を排除し、無視する態度と関係している
・自分や自分と同一視する集団に向けられた侮蔑は誰にとっても不愉快であるということは明らか
・違いがあるとすれば、人を侮蔑するユーモアの素材としてより頻繁に利用される集団と、そうでない集団があるということ
・政治家と障害者なら、どちらが頻繁に侮蔑表現を使われるか?
ようするに、弱いまたは存在感がないから舐められているってこと?
個人的キツイのは、自分が笑えない立場にいても「同調圧力で」誰かが発した差別的ユーモアに対して一緒に笑わなければならないことですね
相手を窘(たしな)めれる立場にいるなら ともかく‥。
そして、差別に気をつけながら発言や会話をする世界にするなら、ユーモア的な発言はフィクションの創作の中だけしかできなくなる(現在ではフィクションと書かれた創作にも口出しする人も多いですが‥)。
強い立場の人はもちろん、弱い立場にある人にも当てはまる。
「そういう世界を望むか?」という問いかけとも取れる。
色んな人に配慮した世界を想像してみる。
個人的には、リアル生活ではユーモアを交えず事実だけを述べるロボットに徹し、創作活動でユーモアを発散するようなイメージしか湧かないですね(^^;)
※創作(フィクション)でも批判は来るでしょうけど‥
つまり、無条件で賛成・反対はできないし、判断もできないというのが個人的な結論。
テロリストや自覚ある人種差別主義者が差別されにくいのは力関係の差
テロリストや人種差別主義者のように、社会的に非難を受けて当然だという合意がある集団に対しては、彼らは侮蔑するユーモアによって潜在的な偏見が表出される効果は大きくなかった。
差別はたいてい悪意のない人がするより
一方、ムスリムやゲイ、女性のように社会の態度にポジティブな面とネガティブな面が混在する集団に関しては、彼らを侮蔑するユーモアを見たとき、押さえ込んでいた偏見が表に出てくる効果が大きかった。
これは相手や相手集団が強いか弱いか、反発されるか、されないかを見ている感じなんでしょうかね?
何度も書いてるけど、世間や相手から舐められることへの不利益が多すぎない?
社会的差別に対して脆弱(ぜいじゃく)な立場にいる集団を侮蔑する動画や放送は人々の潜在的偏見を表出させる効果が大きい。
脆弱な立場にいる集団に対する冗談は決して軽い遊びではなく、差別を促す力がある。
だから、世間は女性軽視→フェミニストの抗議、人種差別に対する反発がものすごいのか‥(^^;)
正直、私は「そこまで抗議する必要ある?」と思っていましたが、こういう効果があるからのことだったんですね。
ただし、フィクションと書かれた創作物(マンガ・ゲーム・アニメなど)の抑圧には私は断固反対させていただきます。創作は生きがいなので。
窘(たしな)めることが出来ないなら、せめて反応しないという小さな抵抗をする
冗談に対して笑わない人たちが現れたとき、そのユーモアは消えていく。
差別はたいてい悪意のない人がするより
誰かを差別し、助長するような冗談に笑わないだけでも、その行動は許されないというメッセージを送れる。
冗談に必死に食らいついて その場に重々しい雰囲気を漂わせるか、少なくとも無表情で消極的な抵抗をしなければならない時があるのだ。
この小さな抵抗、イジメがより起こりやすい子供同士だと難しそうだね
イジメや差別はもちろんダメなことですが、子供は同調圧力の罠にハマりやすい。
子供は‥
・親や環境によって人格に影響が出やすい
・差別やイジメに関する知識や認識が浅い
・家と学校が世界のすべて
・家と学校、どちらかの居心地が悪くなったら世界の終わりと考える
・強い者とトラブルになった人の末路を見ている
・だから、なるべくトラブルを起こさないようにと考える→強い者に同調する
小さな抵抗をするのもいいですが、このへんのケアも大事な気がしました。
これは上司の発言に対する部下の反応など、大人にも言えることですね。
採用基準にTOEICの点数○○点以上は差別にあたるのか?
書籍では聴覚障害者の採用試験の話が紹介されていました。
・ある企業の採用基準にTOEIC600点以上とある
・TOEICはリスニングが495点、リーディングが495点の計990点満点のテスト
・聴覚障害者はリスニングテストを受けることができないので最高でも495点までしか取れない
・仮に聴覚障害者は300点で採用としたら、それは公正な採用だろうか?
・応募先の企業が人気の職種だとしたらどうなるか?
・非障害の応募者は難しいリスニングテストで点数を取るために沢山勉強している
・聴覚障害者のリスニング点数を加味しないのは不公平だとならないか?
・たとえ、このような基準のもとで入社できても聴覚障害者をみる視線は好意的ではないだろう
・では、どうするのが正解なのか?
・最初から聴覚障害者の応募を断る(排除する)のが正解なのか?
この問いへの答えは「採用基準」に問題があるのではないか?と言われていました。
つまり、TOEICの点数は その企業が採用しようとしている業務分野に本当に必要な能力なのだろうか?と。
採用する分野が、たとえば英語の同時通訳者のポジションであれば、躊躇なくそうだと言えるだろう。
差別はたいてい悪意のない人がするより
しかし、そうではなく、採用するポジションが国内での事業企画や技術開発、システム運営ならどうだろうか?
書籍でも指摘されているけど、この採用基準を作った人は非聴覚障害者だよね。いわゆる無意識の排除というやつか‥
これも自分がその立場になってみないと、中々気づけないことですよね(^^;)
そして、なんらかの障害者になる事態は誰にでも起こり得る。
そのときに、障害者に不寛容な世の中だったら‥?
‥と考えると、差別をなくす運動は未来の自分にも起こり得る事態への「保険」ということにもなりますね
ほかの例として、留学生の試験時間について触れられていました。
・非英語圏から来た学生に入学後の一定期間にわたり追加の時間を与えるルール
・試験時間が1.5倍も長く与えられた
・試験で評価しようとするのは英語能力ではないという判断から設けられたルール
・このルールのおかげで非英語圏から来た留学生が英語力を理由に早々に試験を諦めたり、つねに最下位の成績を取るような事はなかった
これに関しては先ほどの聴覚障害者の例と違って、他の学生から反発が起きなさそうなイメージ、不思議だな‥
私の想像ですが‥
右も左もわからない外国の地で不安を抱えながら勉強するのは「自分なら」ツライだろうな‥という同情心みたいなのものが多くの人に湧きやすいからでしょうか?
私の職場にも外国人には優しく接するけど、日本人(同じ国)には厳しく接すると言っている方がいました。
時代によっても変わると思いますが‥共感や同情されやすい人は有利ということでもありますね。
なので、自分を有利にするために友好的に接する戦略を取る人が多いのも うなずける。
※ただし、チョロい人間だと思われるのも不利益が大きいので、バランスが大事
私たちの能力を判断する基準の多くは、もしかしたら誰かには有利で誰かには不利になるように偏っているのではないかと疑う必要がある
差別はたいてい悪意のない人がするより
想像力が足りない!などバッシングされる方々も多いですが、多くの特権を持っている人々はたくさん勉強して想像力を養うか、実際に現地へ(または人に会いに)行き、自分の目で確かめるしかないですね。
迷惑な外国人客や迷惑な子供の入店お断りは、差別にあたるのか?
迷惑客というレッテルを貼る「集団の括り」が取り上げられていました。
・前提として、店に迷惑をかける客を拒否する権利は店主側にもある
・外国人、子供、○○中学の生徒の入店お断り設定は公正なのだろうか?
・仮に迷惑客が成人男性なら成人男性の入店お断りの張り紙を設置するだろうか?
・または大手企業のA社に勤める社員なら、A社社員の入店を拒否するだろうか?
・そんなことはないだろう
・一方、外国人や子供に対しては単純に「嫌だ」という理由だけで拒否する
・ある集団は特に問題を起こしていない個人でも入店を断られる
・一方、ある集団は個々人のミスはあくまで個々人に問題視され、集団としては問題視されない
これは「イメージ」によるところが大きい気がします。
たとえば‥
・K国やC国の迷惑行動や犯罪を頻繁に取り上げるメディア→情報操作?
・一方、台湾などは日本に友好的だと報道されることが多い
・未成年の子供は騒ぐ、反抗期、乱暴というイメージが強い
↓
K国やC国の人へ厳しい目を向ける一方で、台湾人には友好的な態度をしめす日本人。
子供を一括りにして制御不可能というレッテルを貼る。
こういう固定観念のようなものが先行して、店主による入店拒否したい集団と、しない集団の判断につながっているんじゃないかと思います。
そして、差別や排除を受ければ受けるほど孤立して「無敵の人」化→イメージ通り本当にモンスターになってしまうという闇‥
・・とすると、集団を分類せず「○○等の迷惑行為をする(した)客の入店お断り」‥とするのが1番公正ですね。
これなら店側・客の多くが納得できる。
多数と少数ならどっちの意見が通りやすいか問題
被害者があえて公共空間に出てくるから犯罪が発生するのだというのは、被害者に脆弱な集団すなわちマイノリティーに犯罪の原因を見出し、彼らに責任を転嫁する典型的な言い方である。
差別はたいてい悪意のない人がするより
そうやって被害者に責任を帰し、マイノリティーが公共空間に登場しにくくする方式を取るのだ。
犯罪を企てる人々の希望通りの決定を国家が下すことになる。
痴〇被害に遭った女性に対して、「そんなカッコをしているから被害に遭ったんじゃないか?」という意見なども当てはまるね
本書でも触れられていて、あとの方で詳しく出てきますが‥世界は公正であるという信念が一部の人間に備わっているそうです。
そういう人々の信念からすると、世界は公正なので、悪い行いには罰を、良い行いには良い事が起こると信じている。
つまり被害に遭うのは、「何か悪いことをしたから当然の報いなのではないか?」ということ。
世界は不公正である・運の要素が強いと考えている人からすると、「んなわけあるか!」とツッコミを入れたくなりますね‥(^^;)
余談ですが、私がスピリチュアルや宗教系をあまり信じない理由がコレです。
神様は裏切るやんけと‥。
ある程度勉強した大人視点でみるとオカルトだなぁと思いますが、子供の頃に「悪いことをしたらバチが当たるよ!」みたいな教育をされた人も多いのではないでしょうか?
あと、倫理観を持ち合わせている大人でも不安定な状況にいる場合、絶対的な英雄や神、公正世界を信じる傾向が高まるので注意が必要。
弱っているときは判断力が鈍るといも言いますしね。
上司と部下、教師と生徒の差別する力は平等なのか?
権力者あるいはマジョリティーには嫌いな集団を排除できる力があると著者は指摘しています。
公共の場で公に嫌いだと表明することは、その集団が嫌われても良い集団であることを世間に見せつけることになる。
差別はたいてい悪意のない人がするより
なにかを決断するとき、意見が割れたら多数決を採用されることが多いので、マジョリティーが有利というのは理解できる。
権力者の例だと、特定の生徒が教師を非難する重みと、教師が特定の生徒を非難する重みは同じだろうか?という問い。
GALS!(3巻)という漫画で、とあるクラスの担任Aは体育祭でクラス優勝を目指していた。
しかし、そのクラスの生徒Bが最後の最後で負けたので優勝を逃した。
その後、担任Aは生徒Bを当てつけのように無視しだし、それがクラス中に広がったという。
イジメの問題でもイジメのリーダー的な存在の意志を「察して」行動する下っ端イジメっ子が多い。
権力者と非権力者なら権力者の言動や行動の方が重みがあるということになる。
お互いに悪くいうのはもちろん良くないが、権力者の言動や行動は人に与える影響が強いので、その辺を考える必要がありますね。
こちらの書籍でも生徒に教える立場にあった著者が、生徒たちに自分の考えの影響を与えすぎないように行動していました↓
差別をなくすために戦う人々vs自分の日常が壊れると批判する人々、どちらが正義か?
激しいデモを通じて、民主主義を勝ち取った韓国の歴史にもかかわらず、多くの人々は自分の日常生活を妨げる他人の集会やデモを公共の秩序にとって有害な行為とみなしている。
差別はたいてい悪意のない人がするより
書籍では、障害者の移動の権利の保障デモが紹介されていました。
・車いすに乗った障害者たちが新吉駅から市庁駅までの間のすべての停車駅で乗降をくり返した
・その結果、電車がわずか6駅を走行するのに1時間40分かかった
・いつもの5倍以上の時間がかかったことになる
・このことに電車に乗っていた非障害者の市民が激しく抗議した
・「市民を人質にしてどうするんだ!」
・「忙しい人たちを相手に何をやってるんだ!」
・「出ていけ!この(差別用語)!どうして、よりによってここでやるのか!」
・障害者たちが何のためにデモを企てたのか関心をしめす人もいたが、おおむね非障害者の反応は冷ややか
非障害者の立場で自分事として考えてみる。
現状に満足していなく、世界なんて滅んでしまえばいい・・みたいな破滅願望でもない限り、私も同じく非障害者の市民と同じ反応をするんじゃないかと思いました。
ただ、この書籍をすでに読んでいるので、多少は寛容になるとは思いますが‥(^^;)
法律自体がおかしいと訴えるために、法律違反することをどう思うか?
法律に抵抗するために、法律に違反することをどう考えればよいだろうか?
差別はたいてい悪意のない人がするより
法に反することは理由のいかんを問わず、不道徳な行為だと考える人もいる。
彼らは市民なら誰もが民主的な手続きを経て、定められた法を必ず守らなければならない義務があると強調する。
マイノリティも法という多数決の原則により決められた結果に従うべきだと考えている。
前述した障害者による電車乗降デモに対する一般市民からの反発もそうですね。
いわゆる「正論バカ」ってやつのことかな?
今まで見てきたように「前提」が間違っている可能性もありますしね
法律自体が「無自覚に」マジョリティの都合のいいように作られている場合がある。
有無をいわさず退けるのではなく、訴えに耳を傾ける必要がある。
余談ですが、ここでも法律を作れるような権力者と友好関係にあれば戦うこともなく、すんなり決まるんだろうなぁ‥と思いながら読んでいました(^^;)
そう考えると、ちょっと前に問題になっていた非営利団体Cの代表は、周囲に友好とは真逆な対応を取っていましたが、わりと悪手だなぁと。
舐められないために、ちょっとやる分にはいいと思いますが‥。
もちろん、いくら権力者と友好関係にあったとしても、
差別や権利に関しての知識が薄い一般市民に「不利な法律」なら、一般市民からの抵抗で すんなり決まることはないでしょうけど。
民主主義国における法律と憲法の関係について↓
憲法は集会と結社の自由などの基本的人権を保障しているが、そこには限界がある。
差別はたいてい悪意のない人がするより
(韓国)憲法第37条第2項は、「国民のすべての自由と権利は、国家安全保障・秩序維持または公共の福祉に必要な場合に限り、法律で制限できる」としている。
ただし、制限する場合でも、自由と権利の本質的な内容を侵害することはできないと限定が付されている。
書かれていることがちょっと難しいけど‥
民主主義国は基本、憲法>法律だから「その法律は憲法に反していないか?」と訴えることが可能ということだね
変化を嫌う人の傾向のことも書かれていました。
権威(法律やお偉いさんなど)に従う傾向が強い人は世の中を危険な場所だと認識し、他人の動機を疑い、異質な人を嫌う傾向があるそうです。
つまり、彼らは不安と猜疑心(さいぎしん)のために変化に反対するということ。
※猜疑心~人の言葉を素直に受け取れず、つねに疑っている状態
まとめると、
・自分は弱者で保護されるべき存在であると思っている
・現在、強い不満を抱えているか、不安定な世界にいる
・世界は悪意に満ちていると考える
・・というのに当てはまる人が変化を嫌う人ということですね。
うーん、昔の私を見ているようだ‥(^^;)
憲法裁判所の重要な役割の1つは、多数派によって作られた不当な法律を憲法上の基本権と照合して判断し、究極的には破棄することだ。
差別はたいてい悪意のない人がするより
従って、既存の法律に対して何の疑問も抱かず、無批判に服従する態度をとるのは民主主義社会の市民にふさわしくない姿勢である。
過去の時代に都合のいいように作られたルールは、現代には合わないかもしれないとも考えられる。
前の方でも触れていますが‥
上記の引用を示されても、マジョリティに「不利な法律」を制定するか否かの判断なら、マジョリティからの反発も強くなりそうですね
日本で議論されている一部
・資産課税
・高齢者への増税
・非課税世帯への厚遇
・独身税
・子育て支援
・・これらには反発の声も大きいですよね。
私も上記が制定&実施されると、(高齢者への増税以外は)不利な立場になるので本書を読んでても手放しで賛成はできないですね。
公正な世界だという思い込みのせいで、かえって公正世界の実現が難しくなるという矛盾
前の方で触れた内容をもう少し詳しく書いています。
・人々は公正世界仮説を抱いて生きていると言われている
・世の中は公正で、人は誰でも努力した分だけ報われると信じるのだ
・世の中が公正だと信じているからこそ、生涯目標を設定し、これからの人生を計画することができる
・平穏な日常を維持するためにも、公正世界に対する信頼は必要である
・問題は人が不正義な状況を見ても、この仮説を修正しようとしない時に生じる
・常に世の中が公正であるという考え方を改める代わりに、状況を歪曲(わいきょく)して被害者を批判する方向に物事を理解しようとする
・世の中が間違っているのではなく
・不幸な状況に置かれた被害者の方が元から悪い特性を持ち、間違った行動をしたために、そのようなことを経験するのだと考えてしまう
それだと、途上国に生まれて幼くして死んでしまった子は前世で悪いことをしたからだ‥というオカルト理論が成立してしまうね
私たちが暮らしているのは、公正な世界だという思い込みのせいで、かえって公正世界の実現が難しくなるという矛盾がここに生じている‥と著者は言います。
私個人が経験上しっくりくる法則ですが‥成功したり上手く行くのは「運が8割・努力とその他の要因が2割」というもの。
全然公正な世界ではない。
100%の努力をしても運がなければ20にしかならないが、100%運が良ければ努力せずとも80になるのだから。頑張った分だけ報われるわけではない。
余談ですが‥現在の私の標準になっている数式があります。
(努力+才能)×運=結果→努力と才能が0なら結果も0になるという式。
努力は握力を鍛えるようなもので、チャンス(運)が来たときにガッチリつかんで離さないようにするためのものくらいの位置づけ。
つまり、努力も大事だけど、運(かけ算)が割合が大きい。
差別の問題でも公正世界仮説と同様の傾向が見られる。
不当な差別(不公正・運の悪さ)そのものに注目するより、不当な差別の問題について叫ぶマイノリティーの欠点を探し出して批判するという。
マイノリティが努力しなかったからだ等。
個人的には他責思考者のヒドイ言い分を近くで見てきたので、私から言えることは‥
・世界は不公正であること
・運と努力が大事
・努力より運の要素の方が強い
・・という部分だけですね。
トイレから見る差別の有無
ジェンダー関連の問題で、男女のトイレや更衣室問題が現在取り上げられつづけています。
とくにトイレは社会の平等達成の水準をしめす立派な尺度であると著者は言います。
あらゆる個人的特徴や財産の有無、シーンを問わず、人間という生き物である以上すべての人に必ず必要な空間であるからだ。
差別はたいてい悪意のない人がするより
トイレは全ての人が少なくとも1日に数回は行かなければならないところなので、その空間がどのように設計され、どう区別されているかを見れば、その社会が人々をどのように区分し、誰が主流で誰が排除されているかが一目でわかる。
いまってトイレの分け方が凄いことになっているよね
男子・女子・車いす用・幼児用・乳児連れ用・ジェンダーレストイレなどなど
トイレを作る店や施設も大変ですよね、費用とか掃除の面で‥
トイレを男女で分けず、1種類に「平等に」すればいいという反論もあると思いますが、みんなが安心・安全で使えなくてはならないと著者はいいます。
個人的なお気持ちでは、トイレ平等に1種類論はイヤですが費用のない店や施設が多様性トイレを用意できないのも仕方ないのかなとも思いますがね(コンビニとかはトイレは1種類ですよね)。
ある程度資金がある大きな企業や店なら、社会に配慮しているアピールもできるし、多様性トイレはあった方がいいでしょうけど。
不平等な社会は、失敗を恐れる心を植え付ける
不平等な社会が息苦しい理由は、構造的な問題を個人の努力で解決するよう不当に誘いかけているからだ。
差別はたいてい悪意のない人がするより
不平等という社会的不正義に対する責任を差別を受ける個人に負わせる。
そのため、個人の人生は不安になる。
病気になったり失敗したり、いかなる理由であれマイノリティーの位置におかれないよう、絶えず注意を払わなければならない。
失業保険や生活保護制度の役割の大事さがわかるね
自分の目には見えなかった差別を誰かに指摘されたとき、防御のために否定するのではなく、謙虚な姿勢で相手の話に耳を傾け、自己を省みることができるだろうか?
差別はたいてい悪意のない人がするより
その差別を訂正することで自分が不利になるなら、(私の場合は)自信がありませんね。
・・ですが、持ちつ持たれつのような関係をなくそうとする動きなら喜んで賛成できる気がします(^^)
仲間外れになるのが怖い
ある集団の境界の外に押し出されることは恐ろしいことであり、私たちは境界の中に入るために多くのものを犠牲にする。
差別はたいてい悪意のない人がするより
(中略)
私たちが生涯にわたって努力し、磨かなければならない内容を差別されないための努力から差別しないための努力に変えるのだ。
これは使える制度や不当な扱いを受けた場合に告発する術を持っているか(知っているか)?による所が大きいかな
権力がある差別者の同調圧力とか、クリアしなくてはならない問題が山積みですね
差別しない努力をしたくても、権力者が怖くてできないこともある。
権力者の意見を批判したとしても、不当な扱いを受けない制度も必要になってきますね。
個人的に思った疑問など~同一労働同一賃金やフリーライドについて
・同一労働同一賃金で差別するな→わかる
・非同一労働同一賃金は平等→え?
同一労働同一賃金で正規職と非正規職の賃金や待遇に差をつけるなという主張は理解できますが、同じ労働をしていない場合は賃金に差があるのが当然なのではないかと思いました。
(※このことについて言及している書籍はあるのだろうか?)
たとえば、正規職と非正規職がいる職場では、正規職は責任者の立場になることが多いと思います。
なんらかのインセンティブ(役職手当など)でもない限り、責任者は誰もやりたくないと考えるのが普通ですよね。
色々やってみたい好奇心旺盛の人は別でしょうけど‥。
平等を実現するためには、(その職の内容にもよりますが)正規・非正規の枠を取る、かつ責任者を平等に割り振ることでしょうか。
みずから望んで責任者はやりたくない、小遣い稼ぎ程度でOKなパートやアルバイトはどうするのか?という問題もある。
これについて詳しく書かれている書籍があれば読みたいです
フリーライドを許せるか問題
他には、税金など自分が頑張ってコツコツ稼いで納めている横で、健常者に分類される人々のフリーライド(ただ乗り)を許せるかどうか問題もある。日本は富を再分配する制度があるので。
※健常者に分類される人々の例→生活保護費以下の賃金でしか働けないので生活保護を上手に受ける人、税金関係を完全ハックして合法的に節税している人など
これについての個人的な解決策は、嫌い&苦手な仕事は絶対にしないことですね
お金に色はついていないと言いますが‥
・嫌い&苦手な仕事で稼いだお金→自分のためだけに使いたい
・好き&得意なことで稼いだお金→他者へ分配OK
・・となら思える人も多いのではないでしょうか(家族を養っている人はまた別でしょうけど)
好き&得意な仕事がない、または見つからない場合は嫌いじゃない(苦手じゃない)仕事で生活費分だけ稼ぐというスタイルがいいと思いました。
・・というか今の私がこのスタイルで満足しているので(^^;)
いずれ仕事・収入ともに天職と思える仕事に出会えるまで、コツコツ好きな分野の勉強はしつつ。
まとめ:差別のない世界を目指すのは期待値の大きい「保険」
・差別はかなりの学がないと認識できないもの
・かなりの学がある人でも差別し得る
・お互い感謝の言葉を忘れないこと
・平等な世界では負担を減らせる人が増える
・差別を受けると能力が落ちることがある
・世界は公正じゃないという事実
・平等を実現することは将来への保険
某お金のチャンネルでは、「保険」は起こる可能性は低いが、起こってしまったら大きな損失になるものにかけるべきと言われていました。
将来、障害等の弱者になる可能性は低いかもしれませんが、老い=身体的に弱ることは誰にでも起こり得る。
なので、いま損をしても平等な世界を目指す=保険をかけることは将来損をしない賭けになるのではないでしょうか?
※運悪く若くして亡くなる方もいるとは思いますが‥
この書籍も人類(特に五体満足な健常者)が読むべき1冊だと思いました。
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